【主張】米国の国交仲介 中東の構図変える一手だ
イスラエルとアラブ首長国連邦(UAE)が、米国の仲介により、国交正常化で合意した。イスラエルは引き換えに、ヨルダン川西岸の入植地の併合計画を停止する。
イスラエルとアラブ首長国連邦(UAE)が、米国の仲介により、国交正常化で合意した。イスラエルは引き換えに、ヨルダン川西岸の入植地の併合計画を停止する。
新型コロナウイルス感染が再拡大する中、世界では、治療薬や予防のためのワクチンの開発が急ピッチで進んでいる。
お笑いコンビ、ダウンタウンの浜田雅功(57)が発熱のため療養することが18日、分かった。
18日午後5時ごろ、東京都中央区銀座の路上で、「男性が車で連れ去られるのを見た」と通行人から110番通報があった。警視庁築地署によると、目撃者の証言や周辺の防犯カメラの捜査から、複数の男らが年配の男性を白い車に無理やり押し込んだとみられる。
【モスクワ=小野田雄一】来年2月に期限切れを迎える米国とロシア間の新戦略兵器削減条約(新START)の延長問題で、米露両国は18日、オーストリアの首都ウィーンで高官協議を行った。協議に参加した米国のビリングスリー大統領特使(軍備管理担当)は協議後の記者説明で、「ロシアが条約に違反して増強した核戦力を処理するのであれば、米国は条約延長を前向きに考える」との考えを示した。ロイター通信が伝えた。
米大リーグ機構は18日、秋山翔吾外野手が所属するレッズが敵地カンザスシティーで予定していた同日のロイヤルズ戦を延期し、19日(日本時間20日)にダブルヘッダーを行うと発表した。レッズの選手1人が新型コロナウイルスに感染していることが判明しているため、追加の検査など慎重を期すための措置。
国際サッカー連盟(FIFA)は18日、新型コロナウイルスの影響のため、欧州を除く各大陸では今年8月31日~9月8日の代表活動期間の代わりに2022年1月24日~2月1日を国際試合日とすると発表した。
俳優の志尊淳(25)、城田優(34)、ハリセンボンの近藤春菜(37)が18日、ディズニー/ピクサーの最新映画「2分の1の魔法」(21日公開)のオンライン花火大会に出席した。
DeNA・石田健大投手が18日、広島戦(マツダ)で好救援し、勝利に貢献した。
中日は18日、ヤクルト10回戦(神宮)に8-3で勝利した。
米小売り大手ウォルマートは18日発表した2020年5~7月期決算で、米国の電子商取引(EC)関連の売上高が前年同期比97%増と大幅に伸びた。新型コロナウイルスに伴い、宅配サービスやインターネットで注文して店舗で受け取るサービスの利用が拡大した。
菅義偉官房長官は18日夜のBS日テレ番組で、安倍晋三首相が17日に慶応大病院を受診したことについて「病院に行ったことで、いろんな尾ひれがついた。入院するのかという問い合わせも受けたが、夏なので自然の流れで追加検査に行ったということだ」と述べ、健康不安説を否定した。
鳥取県米子市の中心部を流れる一級河川・旧加茂川が「加茂川」に名称変更され、昭和41年以来54年ぶりに元の呼称に戻った。名称変更は市が県を通して要望していた。
大阪大と国立循環器病研究センターは18日、過去に在籍した男性医師が執筆した計5本の論文について、研究データの捏造(ねつぞう)や改竄(かいざん)があったと発表した。うち阪大在籍時に発表された1本は、肺がん治療の臨床研究の参考論文として用いられており、同大は「研究に対する信頼を損なった」と謝罪。現時点で臨床研究に参加した患者への健康被害はないとしている。
横浜市西区のパシフィコ横浜で18日に開催された高校ダンス部の日本一を決める「第13回日本高校ダンス部選手権(スーパーカップダンススタジアム)」スモールクラス(2~12人)の全国大会。大阪府内からは10校が出場し、府立箕面(箕面市)が6回目の優勝を果たした。同校はさらに、スペシャルサポーターのKDDIが提供する「au5G賞」も獲得した。そのほかの大阪勢は、プール学院(大阪市生野区)、府立東百舌鳥(堺市中区)、大商学園(豊中市)が優秀賞。府立柴島(大阪市東淀川区)が産経新聞社賞を手にした。
電動アシスト機能のついたスポーツタイプの自転車「E-BIKE」でサイクリングを楽しむ文化を広めようと、愛媛県自転車新文化推進協会(事務局・同県自転車新文化推進課)は、昨年7月からしまなみ海道(同県今治市-広島県尾道市)で行っている「E-BIKEアクション」の対象エリアを佐田岬、石鎚、四国カルストにも拡大し、一方でしまなみ海道での乗り捨てサービスを始めるなどした。
「ほかのことは忘れても、これだけは忘れられない」-。75年前に和歌山県田辺市龍神村殿原で起きた米軍のB29爆撃機墜落を、この地で生まれ育ち、今も暮らす元中学教諭、古久保(ふるくぼ)健(けん)さん(82)はそう振り返る。当時、まだ国民学校初等科2年の7歳だったが、記憶は鮮明に残っており、著書などで体験を語り継いでいる。